死の恐怖への処方箋が宗教なのかもしれない

釈迦は、「四門出遊」により、人生が苦に満ちていることをしり、出家することを決めた。仏教のスタート地点は、人生の苦しみをいかに除くかだったというわけだ(と思う)。

キリスト教は原罪を背負った人間がいかに贖罪して神の国に入ることができるか、ということだっただろうか。間違っていたらすみません。

その辺のことは正直よくわからないのだが、信仰にはものすごい力があるということはわかる。「この苦しみに満ちた現世から、神が自分を救ってくれる」と確信することができる。この確信の与える安心感は、何ものにも代えがたい絶対的なものとなるだろう。

あらゆる生物において、死は不可避の現象である上に、全く理不尽に、唐突に訪れうるものである。しかもそれは大半の場合「非常に苦しい」ものである。普通に考えれば、それは非常に恐ろしいことである。しかも自分だけではなく、例えば自分の家族、友人、結婚相手、子供、好きな芸能人、…あらゆる人に訪れ得る。死のリスクは避けても避けても先送りされるばかりで、しかも避け続けていると今度は勝手に体が加齢によって衰えてきて、死へのカウントダウンが始まる。人生も終盤にさしかかると、家庭を築いていない人は両親も友人も失い、ただ孤独にあとは死ぬだけしかないような日々になる(もちろん子供がいれば孤独になるとは限らないが、子供がどう育つかは保証されるはずもない)。

例えばそんな時、身寄りもなく、あとは死ぬだけの人生に何らかの希望を持てるかどうかに、宗教のあるいは信仰の有無が大きく関わってくるとしたらどうだろうか?

出産後に死んでしまったと誤診され、生きながら埋葬されてしまった女性のことを想像するだけで、息苦しくなって居ても立っても居られなくなるが、もし生きながら埋葬された女性が神を信じていたら、何かが変わったのかもしれない。

そう考えると、宗教にハマってしまう理由や、例えば宗教にのめり込みすぎて借金してでも破産してもお布施し続けるというような行為が取り沙汰されることがあるが、そういった一見不可解な行動も理解できる気がする。死の恐怖を克服できるためであれば、何をしても、人によっては、家族や知り合いを巻き込んで不幸にしても不思議はない。例えばホストクラブにハマった人だって、借金したり体を売ってまで貢ぎ続けるらしい。それを思えば、社会的にどうかはともかく、人間という生物の行為としてはそこまで異常な行為でもないのかもしれない。

「信」というところに手がかりがあることはおそらく間違っていない気はするのだが、じゃあ、宗教が最後の答えなのか?というと、それはまだわからない。自分の「死の恐怖」とこれからも向き合って考えていきたい。