失敗することについて

Xmasの朝からこういうことを書いていると、(性的な意味で)とつきそうに見えるが別にそういうわけではないです。まあ、それでもいいんですけど。
失敗というのは、自分は前から「ネタになるから」まあいいや〜、みたいな理由で合理化していたようなところがあるんですが、「成功とは、意欲を失わずに失敗につぐ失敗を繰り返すこと」という有名?な、チャーチルの言葉をつぶやいているうちに、最近はさらに一般化というか、より高い次元からみて、「滅多にない機会を得た」と考えられるんじゃないかと思うようになってきました。
例えばこないだの酒の失敗の例でいえば、眼鏡をなくした経験というのは、「眼鏡なしでなんとか過ごさざるを得ない日々」という、「眼鏡をなくさなければ考えもしないようなレアな機会」を得たとも言える。その機会をどう生かすか、ということを考えてみれば、例えば新しいメガネを選び直す機会だとか、コンタクトで業務に臨んでみるテストができるとか、無くした眼鏡をなんとか発見するために、警察だとかタクシー会社に連絡する経験を得る機会だとか、今後これを繰り返さないためにはどうすればよいのかを、身にしみて考え直す機会だとか、そういう“機会の波”がどっと押し寄せていることに気づくわけです。
そう省みると、失敗というのは一般的に、むしろ「レア体験を行うためのきっかけ」とみなせる。普段の生活をしていては得られない経験を積むためには、もしかすると必須なのではないか、とさえ思える。
しかし失敗というのは一般に避けるべきであるとされている。なぜかというと、当然そういう、まだ形になっていない機会以上に「具体的な損失」が現実的に非常にリスキーだから。もちろん失敗した本人にとっては、程度の差はあるにせよ、下手をすれば人生をひっくり返される可能性すらある不安定な時期に突入するわけなので、そう達観してもいられないというのは常識的に考えれば当然なのだ。
ただ、だからこそこの失敗というのは非常に独特な立ち位置にいる経験だなと思うわけです。つまり、「できる限り避けなければならない」経験でありながら、「必須」であるという。矛盾そのものです。しかしそうだとすると、人はどうすべきなのか?答えは、たぶんそう難しくはない。「失敗を可能な限り避けるために周到な態度を保ちつつ、失敗を孕んだリスキーな行為に積極的にチャレンジしていくべき」ということ。

最近、知識・見識・肝識という言葉をしったが、自分のこの考えは高々「知識」レベルで、実戦投入されていないナレッジに過ぎないと思うのだけど、身につけていきたいですね。