運について

自分はこれまでの人生で、あまり「運」と向き合ってこなかった。

麻雀も大学で覚えたけど自分のあまりの弱さに嫌気が差してすぐにやめたし、競馬やパチスロなど、大学で周囲の人がやっていたようなギャンブル性の高いゲームには興味を持てなかった。宝くじも買わないし、スマホゲーも基本無課金を貫いてガチャも引かない。趣味は囲碁音ゲー、料理など、基本的にサイコロを振って決まる要素がないものばかりだった。唯一ひくガチャは正月に引くおみくじだけ。だから、自分が運がよいとか悪いとか、そういうことと向き合う機会もなかった*1

雀魂が大ブレイクして、自分もインストールしてみることにして、ついハマってしまい、結果的に、この歳にして突然「運」とガッツリ向き合うことになった。

それにしても、段位戦の配牌・ツモの悪さ。例えば149mという並びの数牌に、対子すら全くない字牌、役牌。ドラが6pのときに、457pという形でツモってくるし、それなりの安全牌を切っているつもりでも(現物じゃないから仕方ないが)それにしても放銃率が異様に高い。これもうどうしようもないな、という流れが続くことがある。

一方で、なにげなく麻雀練習中(まだ全然弱い)のVTuberの配信を見ていたところ、技術の点であと一歩のため上がり切るところまではいかないのだが、配牌やツモがあまりにも良く、しかもそれが続くのである。

こういった理不尽さをどう捉えればよいのか?こうなると、ある程度純粋な「ランダム」とは違う「運」というものは確かにあると信じざるを得ない。では運を良くするためにどうすればいいのか?「日頃の行い」なのか?

そう思ったときに、実は、自分がこれまで運とは無関係で全て実力で決まっていたと決めつけていたことも、運に影響を受けているのではないか?と気づいた。

囲碁も、音ゲーも、料理も、そのものがサイコロ要素がないからといって、運の影響を全く受けないことはありえない。囲碁では、AかBかの二択で悩み、選びきれないときにエイヤで打った手が好手であるか悪手であるかは運といっていい(無論どっちも外れのこともある)。音ゲーも、ドラムをやっているときに、見えないノートにたまたま反応できるかできないかは運だ。料理というのは、不味くする要素を混在させる確率を可能な限り下げるスキルだと換言できるかもしれない程に不確定要素だらけだ。

自分はこれまで、自分の実力に全て帰結させて物事を考えていた。それはある側面からすれば正しい態度である。失敗をしたときに「これは運が悪かっただけだ」とみなすことは、自分の選択を省みるきっかけを失うことだからだ。しかしそれは非常に厳格な態度でもあり、同時に、全ては自分によって決まるという、非常に「傲慢」な態度でもある。「独善」と表裏一体の関係にあるといってもいい。その態度を一貫させることは、自分だけでなく他者にも負荷をもたらすだろう。

運に頼ったり、運に逃げたいわけではない。ただ、物事を柔軟に捉えるための一助となりうることは、おそらく間違いない。今後、「運」というパラメータを自分のパフォーマンスを捉える上で新規に導入してみよう。

*1:ただ、サイコロを使うボドゲ、例えばカタンとかバックギャモンとかは非常に弱いので、麻雀がズダボロだったことも考えあわせて、自分は基本的にサイコロを使うゲームとは相性が悪い、という認識はあった