なぜこうなってしまったのか

自分の人生が、学歴、年齢の割に客観的に今一つ振るっていないことはどうひいき目に見ても認めざるを得ません。いや、一応幸福感はそこそこ得ているとは思うのです。自分自身が特にお金を持っているわけじゃないですけど、ネットやインフラ、東京という環境、周囲の人間のお陰で最低限度の文化的な生活はありがたく享受できています。
しかし恐らく自分はもっと努力して、もっと多忙で、もっと責任のある業務をして、もっと余裕のある収入を得て、もっと周囲に影響力のある人間であるべきだと考えると、ではなぜそうなっていないのかを考えておく必要がありそう。

  1. コミュニケーションの拒否
  2. 内向的な趣味・オタク傾向
  3. 趣味への不十分なコミット

コミュニケーション拒否

別にコミュニケーション不全というわけではないかもしれないし、人見知りが全然ないのはむしろ自慢できるところ。ただ、明らかにそれが下手で空気読めず機転の利いた(というか普通の)会話ができないというのは間違いなくある。
自ら周囲に一歩距離を置くことで、周囲からも距離を置かれることになる。そして悪循環…*1
とにかく昔は飲み会がキライで苦手で、それは今でもそういう傾向は非常に強いのだけど、今はお金を払って一緒に飲みに行くことの価値は昔よりははるかに認識しているつもりだ。しかし飲み会に行ったところで、会話ができないし会話に加われない。自分の周囲だけ変な空気にさせてしまう。これ結構辛いです、自業自得とは言え…。
自分がいなければもっと周囲も楽しめるんだと思うと、わざわざ自分が参加することもないなと思ってしまう。しかしそういうことの積み重ねで、自分のある種のスキルは磨かれることなく子供のようなレベルに留まっている。

内向的な趣味・オタク傾向

オタクっていう言葉はとりあえずここでは秋葉系という意味で…。ネット、アニメ、ゲームという「趣味」でリアルに友人と積極的に会って一緒に楽しむという経験が乏し過ぎる。もっとアクティブでリア充的な趣味を持ちたいところだ…。

趣味への不十分なコミット

孫正義さんの講演で、「登るべき山を探せ」といった意味の言葉があったけど、自分は音ゲーとか囲碁とか東方とかいろいろやっておきながら、何かコミットしきれていない何かが常にあり、それが自分の趣味のスキルを頭打ちにさせている大きな要因だと思っている。自分は中学の頃の受験勉強のように、一つのことに深く打ち込まなければ全部中途半端になってしまう。しかし、自分が今まで趣味としてやってきたことは、無意識のうちに「逃避」であり「自分が本当にやるべきことではない」という、煮え切らない気持ちが確実にあった。時間を費やすのは全て「逃避」の結果であり、何らかの言い訳の気持ち、対象に対して一直線に向き合えない気持ちがあった。必ずしも常にそうだったわけではなく、全力を尽くしていた時間も間違いなくあったがそれが継続することがなかった。それでモノになるはずもないし、中途半端な「趣味」が増えるばかりになってしまった。
孫さんの言う「登るべき山」「登りたい山」というものではないと無意識のうちに感じていたのかもしれない。自分にはこれしかないという意識は、少なくとも全くなかった。そうこう逡巡しながら、時間は流れて、無駄に年を重ねて、たいしたものを何一つ生み出さずにここまで来てしまったわけ。
まあ、本業に全力でいさえすれば、趣味くらいは「自分探し」をしてもいいんじゃないかと思うし、その時楽しければいいんじゃ、という気もしないでもない。趣味から何かを生み出そうと言う意識が虫のいい考えなのかもしれない。いや、そういう風に「趣味」に対する態度が定まっていないのがそもそもの問題なのかもしれない。

*1:そんな自分を飲みに誘ってくれたりする方々にはマジ感謝です;