作品が作者の手を離れて存在し得ない可能性

について思ったのはコーヒーのキャッチコピーに「日本人は、うるさい」と書かれてあったことから。
これ例えば外人が書いたとしたら、まず(この人日本語がちゃんと分かってるのかな?)という疑問を抱くだろうな、と感じた。
この極々些細な事象に基づく些細な考察を、強引に一般化してしまうと、人は「作品」に接するときに、その作品だけを見てはおらず、その背景に関心を注がないわけにはいかないと。そしてその背景を見て初めて作品が浮き彫りにされるのだと。
浮き彫りにされる部分とはどの辺りに存在するのか、それは作品の価値に影響を与えることなのか・・・云々は多分どこかでさんざん論じられてきているだろうから僕的にはノーコメントで(←
ただ一つ、背景がなければ、作品は作品として認識されないということはあるだろう。その背景は必ずしも「作者」自身に限られるわけではない。時代であっても国であっても、媒体であっても場所であってもよいと思う。
例えば、ハルヒSOS団のマークを描いた時に偶然それが莫大な情報量を備えた図柄になっていた、という話があった*1が、そのように突拍子もないところからいわば「大作」が生まれたとして、それは作品として認識されることもなく捨て置かれることになるだろう。