「悪」を「浄化する」場としての人生

人生って何だろう、とか別に思い悩んでいるわけではないです。そもそも、真っ当に人間として幸せな人生を送りたいと思うと余り選択肢もないような気がします。もちろん「幸せ」の定義は人によって違うわけですから余り意味のある発言ではないかもしれませんけど。
ともかく、自分が嫌いなことは「ネガティブであること」です。どういう経験を経たためにそういう価値観になったのかはよくわかりませんけど、別にとりわけ異端ではないと思うし、むしろ案外多くの人にある程度は同意してもらえる価値観ではないかと思います。で、ネガティブにならない生き方、というのを求めて行きたいと常々考えてます。
その過程で、頭の片隅にあった江原啓之さんのスピリチュアルな世界観*1と混ざり合って、
「“「悪意」が循環する場”としての世界」という世界観と、「その「悪意」を「浄化する」ための人生」という人生観に今現在至っています。
「悪意」というのは、人の中に生じる負の感情。あるいは、無知蒙昧、誤謬。それが、人の活動から生まれ、発言や行為を介して人に伝播し、連鎖する。ただし、人は悪意を「浄化」することができる。あるいは、もともと負の感情を抱かずに生きることも可能かもしれない。主に負の感情に基づく行為を受けた時に、それに基づき生じる負の感情が行為に変わる前に、自分の中で「正の感情」に転化させればよい。リフレームやら、合理化やら、いろいろな方法はあるだろうが、基本的にどんな出来事であれ、それをどう解釈するかは捉え方によるのであって、負の感情が人から人へ連鎖するという表現はその意味では間違っているともいえる。ただし、捉えなおすためにはエネルギーが必要になるために、通常、負の感情による行為は他人に伝わった時に負の感情を喚起した上で、いつか負の行為として顕在化させてしまうリスクを負う。
このような前提を仮定した上で、人生の目的というのは、悪意が連鎖するこの世の中で、その悪意を出来る限り自分の中で浄化し、ポジティブな方向へ向きを変えてやるというところにあるのではないか、とそう感じました。
この人生観が「誰得」と感じる向きもあるかもしれないですが、悪意を浄化し、また周囲に負の感情を伝播させるのではなく、正のエネルギーを発散できるようになる自分が誰よりも幸せになれると思います。どうでしょう。

悪意の振る舞い

[後で書く]

*1:昔読んでとても感心した