悪を浄化する場としての人生(その2)

「悪を浄化する」
中二病もいいとこだ、という感じもしますが、筆者は多少中二病入っているのでそれは認めざるを得ません。
しかし、「悪を浄化する」のはそう簡単な話ではないです。「悪意がアクションを媒介に流れ込んでくる」*1と、その時につい感情的に反発してしまったり、それを機に自分の体内に発生した悪意に手をこまねいて周囲に発散してしまう、あるいは体内で蓄積して成長させてしまったりするのが普通のリアクションだと思います。
しかし、そんな時に、悪意を反射させたり、発散させたり、蓄積して成長させてしまったりさせずに、悪意の総量をなんとかして自分のエネルギーを用いて減少させ、消滅させ、正のエネルギーへと転化させるという努力が必要とされます。そう、努力が必要になるのです。
筆者はこんなことを書いていますから、多少は自覚的に悪意の発生や変化を感じているはずですが、だからといってその悪意を簡単に浄化させることができるかというとそうでもありません。
周囲に悪臭のような悪意を発散させることは恐らくしょっちゅうだと思いますし、昔は今以上にキレて暴力を振るうようなことも少なくなかった*2
そして、正の力で浄化しえない悪意を強引に押し込めようとすると、そのバランスの崩れは要は無知の、あるいは誤謬として、別の形の悪意として現れるわけです。
でもそれは仕方ないことです。人間に悪意を浄化するなんてこと、簡単にできるはずもないです。できなければ悪意を発散させてしまうのもやむをえないでしょう。もちろん、その罪は自分が負うしかありませんが、人間誰しもそういう人生を生きているわけです。私もまたある程度諦めと開き直りをもって、そういう人生を生きています。
しかし、自分が少しでも悪意を浄化できれば。そして周囲に悪意ではなく、幸福を与えることができるなら。それは素晴らしいことではないか、と思うことは確かです。
ガンディーが暗殺されたときに、彼は自分の額に手をあてたそうですが、それは「あなたを赦す」という意味を持つジェスチャーだそうです。自分の命を奪う程の悪意に接してなお、死の間際にあってさえ、彼はその悪意を浄化し得たんだと、私は思います。

ちなみに

自分が上のような、なんらか宗教じみたことを考えるようになったのは、「憎しみに対して憎しみで応えていてもそれは何も生まないし、憎しみが増すばかりである」ということを、何がきっかけかはわかりませんが、なんとなく実感した気がしているためです。「実感」というのは何気ない言葉のようですが、今まであくまで知識でしかなかった表面的な事柄が、自分の中で真実になったということだと思います。
自分の世界観の中の一つの定理として一般化され昇華したといってもいいかもしれません。

欲望は悪意なのか?

これは難しい問題かもしれません・・・。欲望というのはアンビバレントな性質を持ち、自分自身の生というベクトルと他者の破壊というベクトルを持つものだと思います。この矛盾になんらか折り合いをつけて合理化して、あるいは何も考えることなく、素直に、人は欲望に発する行為を行っているのかもしれません。
まあ、話がこういうところに来たら、諦めて放置するのが正しい態度かもしれません。(笑)

*1:敢えてこういう表現を使う

*2:今思うと本当に愚かであったと思いますが、それでもそういう自分を理解できる自分は今も自分の中にいます