『リョーマ!』を観た

ヒカルの碁」目当てで、ヒカ碁連載当時は毎週ジャンプを読んでいたので、同時期に連載されていた「テニスの王子様」通称「テニプリ*1もまた連載当時に楽しく読んでいた漫画の一つだった。

当時すでに、突き抜けた演出からギャグ漫画扱いされることも多い漫画だったとは思うのだが、個人的には熱くてカッコいいスポーツ漫画として楽しんでいた。今思えば当時は「漫画の読み方」については小学生レベルの知識と経験しかなかった。読んだ漫画の絶対量があまりにも少ないと、他の作品との比較という観点から漫画を読むことができない。常にその作品は絶対的なもので、比較ができないから極端な話、何が凄いのか、何が面白いのかもわからない。知識の貧しさによる相対化不能な状態というのは、当人は何も思わないかもしれないが、結果的にそこから読み取る情報もあまりにも貧弱なものになってしまう。

さらに、人生経験が不足していると、主人公に感情移入することもできない。「ああ、こういうことあるよね。わかるわ〜」というふうに感じることさえできない。想像力で補うしかないのだが、想像には努力が必要だ。それを欠いてしまうと、もはや物語の与えてくれる意味は殆ど失われてしまい、後には意味を持たない絵と言葉だけが残る*2

アニメや漫画についての経験を一般人レベル並みに積んだ後に、改めてヒカ碁を読み返すとその文学作品のようにきめ細かい世界の描き方に気づかされるし、テニプリを観たときに、それがいかに熱くてめちゃくちゃカッコいいスポーツ漫画かということに、また、作家がこの漫画を通していかに読者を楽しませようとしていたかに気づかされるのだ。

リョーマ!』を知ったのは映画の冒頭3分ほどがYouTubeで公開されていたのがきっかけだったと思う。

正直最初はこれを観ても何も感じなかった。ここで描かれているのがどういうシーンなのか全く理解しておらず、なぜリョーマがテニスコートで四つん這いになっているのかもわかっていなかった。オルゴールのBGMをバックに、コートの真ん中でスポットライトで照らされたリョーマが四つん這いになっている姿は滑稽にも見えて、ギャグなのかとすら思ったほどだ。

その後、この動画をいたく気に入り、「音楽(上記動画で流れているDear Prince)が頭から離れない」といい映画を観に行きたいという配偶者に、付き添い程度の気持ちで映画を観た。映画自体はCGはそこまで洗練されたものとは思えなかったが、リョーマの性格や動作は極めて丁寧に再現されていたし、ストーリー自体も違和感なく感情移入して楽しむことはできた。ただやはり、リョーマ以外だと跡部様や手塚部長ほか、何人かの青学メンバーくらいしか知らないという状況だった(桜乃ちゃんだけはかすかに覚えていた)のでその程度の感想にとどまってしまうわけなのだが、今思うと、僕がリョーマを観てテニプリに改めてハマった瞬間は映画上映後に流れた以下の公式MADを観たときだった。

テニプリに登場したライバル校の個性豊かな選手たちが次々と描かれ、それぞれのチームもまた映像の中で紹介されるMAD。

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ここでの選手たちの描き方が、ただひたすらに、カッコ良すぎて、自分の奥深くに刺さってしまった。理由はただそれだけ。

それから、テニプリの知識を少しずつ補いつつ映画を繰り返し観て、冒頭で描かれていたのは原作の最後、全国大会の決勝戦における「常勝」立海大テニス部部長幸村精市との試合で、幸村の強さの前に絶望して「五感を奪われた」状態になったリョーマが、父親の言葉を思い出して「天衣無縫の極み」に達し、6ゲーム連取して全国優勝を勝ち取ったというあまりにもドラマティックなシーンであったことも知った。

映画を見るたびに、映画本編のシーンのひとつひとつにもいろいろ感じるようになってきて、「世界を敵に回しても」が流れるラストシーンは、知識が十分に得られているとは言えない自分でももはや涙なしでは観ることができなくなってしまった。

先日、テレビアニメの1話と2話を見たのだが、リョーマのかっこよさに胸がいっぱいになってしまった。テニプリを観た後の満足度の高さは何なんだろうと不思議に思う。許斐剛先生が、天才だからなのかな。

*1:当時は「テニ王」と言っている人もいたと思う

*2:小学生の頃、読書感想文を書くことが辛かった大きな理由はこの辺りだったと思う。文章の構成やレトリックみたいなものがないから苦しんでいたわけではない。そんな高い次元の話ではないのだ。ともかく殆ど何も感じないから、書くことがないのだ。「主人公かっこいい」「このシーンのこのギャグが面白かった」「この食べ物おいしそう」「主人公うらやましい」「痛そう」・・・もう、本当にその程度しか感じることができないのだ。それで原稿用紙を埋めることなどできない。想像力を働かせるなんて思いつくだけの頭も、何かがんばってみようかという気力も全くなかったと思う。改めて、ただひたすらに何もかもが面倒だった小学生時代だったなあと思う