本を読むということ

雑誌や漫画や小説ではなく、新書系の本に関して。
一日ネットし続けて大量の文字に触れていると、逆に「よい文章」とか「深い文章」というものがより際立つ、というかそういう文章に対して敏感になるような気がする。いや、そういうことではなくて単にすぐに意味が把握できる文章かそうでないかの違いかもしれない。
新書系の本に書いている人は大学教授クラスの知識人が多いと思うのだけど、単なる過去の思想の解説ではなく(そうであったとしても十分難解でありうるけど)自身の思想を披露していたりすると、途端に読み辛くなる。決まった紙数で書くわけだから、密度も高くなる。そして意味がわかったときには、実はかなり深いことを書いていたということに気づかされたりする。
使う言葉が自分と異なるというだけでもとっつきにくいが、既知の思想であれば、「ああ、要するにそういうことね」と概観やら背景を推測することができるが、それまでになかった解釈やら新しい思想、自分の触れたことのない分野となると、そういうわけにもいかない。
要するに、そういった文章というのは、いわば「他者」であって、理解しがたいものである。そういう文章を読むことは他者との出会いである。何が言いたいかというと、非常にストレスフルである。しかしそれを乗り越えないと、文章を読めない。他者を理解できない。自分の枠を広げることができない。
他人が書いた文章であっても、「他者」ではない文章というのは数多くある。それが、上に書いた、一瞥して「要するにそういうこと」と把握できるような文章である。ネット上にも理解しやすい「他者」は数多くいて、それらに触れることで少しずつ人は自分の枠を広げていくことができる。しかし、新書上の「他者」は非常に強大で、受け入れがたい。そうであるがゆえに、受け入れなければならない。そうしなければ人は成長することができない。