頭悪いムーブ

現代の価値観は様々だが、現代社会において、あるいは人間が社会的生活を営む上で、明らかに否定されるべきムーブは存在していると思う。論理的でない(論理が飛躍している)、合理的でない(理に適っていない)、真実ではない(偽りである)などの振る舞いである。

このブログ自体、言うまでもなく仮説に過ぎず、絶えずアップデートされるべき価値観の一瞬のスナップショットに過ぎないが、それでも今現在においてある程度「枯れた」はずの価値については、それなりに普遍的な価値を備えうるのではないかと思う。

思い込みにしたがう、決めつける。(=偽りの根拠に基づく行動)

思い込みにしたがうこと、決めつけることは、曖昧な、あるいは偽の根拠に基づく行動にほかならない。自分が正しいと思っているだけの根拠が、実は完全に偽りであったとしたらどうだろう。その行動は、偽りに踊らされた道化のそれに過ぎない。

自分の考え方の依って立つべき根拠は、常に確認し続ける必要がある。

人の話を聞かない。自分を疑わない。(=異なる価値観の否定)

人の価値観は、死ぬまで発展途上であり、完成することはない。異なる価値観との出会いをきっかけに自身の価値観との照らし合わせを行い、旧い価値観を壊してアップデートすることは、成長において不可欠のフローである。もちろん、自分の価値観のアップデートは苦しみを伴う。それは自己の否定だからだ。

蝉の羽化や、甲殻類の脱皮が連想される。脱皮した皮は旧い自己であり、旧い自己の一部を破壊して、中から新しい自分が誕生するプロセスは、まさに価値観のアップデートと相似している。 

したがって、表題の行為は成長を自ら止める行為に等しく、健全な文化においてこれが肯定されることはありえないだろう。

怒りや悲しみ、喜びなど、いっときの感情に左右される。(=感情的な行動)

「いっときの感情」にしたがうのは愚かである。人間はその場の雰囲気に乗せられて、普段なら思いもしないことを行動に移すことがある。冷静であっても人は過ちを犯す。いわんや、冷静を欠いての行動はそれなりのリスクを伴う。

ただし、この命題にはひとつ問題がある。自分の冷静さを自分で判断することは難しいという点だ。人間の意識は絶えず揺れ動いており、自分が「同じ場所にいる」と思っていても実は全く違う場所にいることがある。エレベーターに乗った人を想像してみよう。エレベーターに乗った人は、自分が2階にいようと、20階にいようと、エレベーターの中の表記を見ない限り、その高さを認識できない。同様に、自分の気持ちがどれだけ「高まって」いても、「低い」位置にいても、自分の脳内での思考は一見同様に行えてしまう。思考が同様に行える場合、自身の温度感をいったいどのように判断できるというのだろうか。

つまり、「一時の感情」に過ぎない感情が3年間持続するということもありうるわけで、そうなると「一時の感情に左右されてはいけない」という命題は、もはや人は一人では何一つ決めてはならないという系を導く。我々は「自身の愚かさをその場で自身で認識することが原理的に不可能」という世界に生きているのだとしたら、世界の厳しさを改めて実感する*1

ただし、そうはいっても、局所的な感情の上下については人は認識できる。人は冷静になったつもりでもアホな判断をすることは避けられない。が、それは弁えた上で、局所的な感情に振り回されることを防ぐことは可能なはずだ。

*1:もちろん、人間は一人で生きることはできない。人間同士で相互に依存しないと生きていくことができない。そのようにマクロに捉える限り、上記命題にはさほど大きなインパクトではないかもしれない