なぜ「愚民」の選択が「正しい」か

短期的には民衆の選択というのは誤る。民衆はある意味「愚民」である。

多くの人は「いいもの」か「悪いものか」を容易には判断できず*1、大半の人は審美眼など持っていないはずなのに、なぜかそのような普通の人がこれまで選んできたからこそ生き残っていたようなものは「良いもの」であり、「良いもの」がその審美眼の狂いによってフィルターされることなく正しく残ってきている。

しかし、ではなぜ審美眼も鑑識眼も持たない「愚民」が、結局素晴らしいものを選んで、そうでないものを落としてくることができたのか。愚民が価値のないものを正しく否定でき、価値のあるものを受け入れ引き継いできたのはなぜか。

それは「時間」と「反復」というフィルターによるものだ。あるものを選んで長期間使い続けた。しかし、「悪いもの」は長期間使っていくうちにどうしてもボロが出る。「いいもの」は、長期間使っていても、むしろその価値を高めていく。「反復」も似たようなものだが、繰り返し接していく過程で、悪いものというのはどうしても時間の試練を乗り越えることができない。愚民は短期的には誤った選択をする。それはもうしょっちゅう間違える。しかし、長期的には、やはり悪いものは選ばれなくなってくるのだ。

では、短期的にでも多くの人の間でもてはやされるものはどういうものか。

いくら多くの人に受けたとしても、それが長期的に続くとは限らない。それは、人ひとりであっても100万人であっても、全く同じことだ。多くの人に受けることは、その対象に何の保証も与えてはくれない。

ただ、多くの人の間でヒットするものは、少なくとも、短期的ではあっても、「多くの人の琴線に触れた」のである。それは間違いない。大半の人は、その作品の価値を正しく評価できない。皆それぞれの感性でその作品に触れ、それぞれの感性が見出す価値しか見えていない。しかし、ヒットする作品というのは少なくとも、多くの人(ミリオン単位の多くの人)の感性に訴えたのである。

蛇足だが、現代におけるヒット作の共通点の一つに、それが「莫大な情報量を持っていること」はひとつあるかもしれない。2015年から2016年にかけて、邦画/劇場版のアニメが充実していた。「君の名は」「シン・ゴジラ」「ガルパン劇場版」など。それらの作品を観ていて思ったことはどれも情報を大量に詰め込んでいる、ということだった。円盤を購入させるための手段とも思えたが、「情報量が多いほど多くの人に訴求する」というのはある意味自然で、作品中の情報量を増やすことは、ヒットするためのもっとも基本的な手段なんだと思う。

ただ、その時代でヒットする作品は、同時代の多くの人の感性には触れたが、普遍的な価値を持つとは限らない。後に振り返って、「なんであれが受けたのか?」と思えるような作品も少なくないだろう。

*1:「芸能人格付け」でことごとく間違えるなど