火垂るの墓

21年前のアニメ映画版は、多分小学生頃に一回見ました。当時の印象としてはかなりかわいそうな戦争映画、という程度だったと思う。
結構AAネタとか「節子、それドロップやない、おはじきや」*1とか、劇中のセリフがネタにされることが多いのは人気のある?証拠でしょうね。
金曜ロードショーで放映していたので見返してみました。

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。高畑は、兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている。
火垂るの墓 - Wikipedia

これ、その通りだなというのが今回の印象です。あんま戦争とか関係ない、といっちゃってもいいかも。
最近感じるところは、死というのはホントに身近なものだということ。いつどこでどのように死ぬかなんてわからない。死に至る道は例え戦争中だろうが、戦争のない表向き平和な世の中だろうと、常に隣に口を開けて待っている。
昔はそういう意識はだいぶ薄かったし、自分が死ぬなんてことはあまり真剣に考えることもできなかったのだけど、今となっては、清太を「戦争に巻き込まれて身寄りをなくした不運の少年」として客観的に見ることはできません。他人事だとか、決して思えない。清太が野菜泥棒をしているのがばれて、タコ殴りにされたあとに交番から出てきて、節子を見た時に泣きだした彼の気持ちは痛いほどによくわかります。
ニートが社会問題になっている現代においてはまた20年前以上に受け入れられる意味があるんじゃないかな、と思いました。

自分は今のところ幸い働けていますが、会社の状況は思わしくなく、退職者はひきもきらない状態。自分が清太の二の舞にならないようにするためにはどうするか。そう感じさせられます。

しかし、映画としての価値はともかく、娯楽映画でもないし、何が面白いのかといえば実際何も面白くないです。この映画の中での唯一の癒しポイントは節子のかわいらしさですね。

通常アニメでは子どもの役も大人の声優が演じるのが常とされているのだが、今作では本当の少女を起用してリアリティを追求している。―火垂るの墓 金曜ロードショー

仕草といい笑い声といいセリフといい(ネイティブ関西弁!?)ホントにかわいいです。そんなかわいい節子が栄養失調で死んでいくとかとんでもない悲劇です。僕は面白くて明るい作品が好きです。けいおんとか。

*1:実際は「これおはじきやろ?ドロップちゃうやんか!」でした。