無題

何かしら到達地点というものを知りたくなるのだけど、男女の「愛」に限らず愛というものは到達地点はなく、「継続」することそのものがそれであり目的であるのではないか。
だとしたら、確かに「結婚」は到達地点であり、また同時にシニカルな意味ではなく墓場である、むしろ祝福の意味で「墓場であってほしい」という意味もある*1
そう考えると、途端に愛というのはなかなかフレキシビリティに溢れた多様な姿をとりうることに気づく。
セックスというのはおそらくは基本的に余計なものというか、言ってしまえば人が人の形をしていることで必然的に発生してしまう何ものかであって、特に深い意味はない。ただ現代人は多分、この付属物に意味を持たせすぎているのだろう。
例えば猫を愛してもセックスはできない。猫はセックスのためのアフォーダンスを持たないからだ。しかし猫が人間の形をしていれば、おそらくセックスもしてしまうかもしれない(お互い愛し合っていれば)。
セックスを抜いて考えれば、愛の形は本当に自由になる。もちろん、結婚だってその「正しい」一つの形だと思う。そして、愛することで私達は多くのものを、“神から受け取る”ことができる。

*1:墓場でない結婚は離婚に終わるのだ