「ゆっくり」に対する「正しい」愛情表現

「ゆっくり」というキャラクターはセックスできないし、といって実在しないから実物を愛でるわけにもいかない。となると、愛情の持って行きどころが多少過剰になると、その矛先が向かう場所がなく、やむなく「虐待」という方向に行ってしまうのは必然なのかもしれない。
ただ、たとえば絵やショートショートによる「虐待」が、「間違った」愛情表現であるかというとどうか。「ゆっくり」は公式のストーリーや設定があるわけでもない(ある程度の共通仕様みたいなものは考えられているようで、そこで妙な設定がされることは現在のゆっくりに対する接し方を変えていくかもしれないが)自由なキャラクターであり、何度「虐待」しようとも、常に彼女らは「ゆっくりしていってね!」というあの表情で無限に永遠に存在し続けているのである。
そういうキャラクターに対する「虐待」は、はたして「虐待」と言えるのかどうかもわからなくなってくる。それは人間に対する虐待という言葉をただ機械的に当てはめたに過ぎず、本質的には虐待でも何でもないのではないか? なぜなら彼女らは何のトラウマも感じずに、何度でも蘇り続ける存在なのだから。
もちろんその時にはあたかも人間のように苦しみ、泣き叫び、必死に逃げだそうとする。しかし、それこそがゆっくりの「本気」のリアクションであり、その本気のリアクションを得るためのほぼ唯一とも言えるコミュニケーション手段が「虐待」なのではないか。そして、リアクションを求める純粋な気持ち(=愛情)が、その原動力になっていることは言うまでもないのだ。