「記憶する努力」が自分の学習プロセスから抜け落ちていた

昔は記憶することに苦しむことはなかった。子供の頃はなぜか妙に記憶力がよかったのだ。「記憶する努力」は不要だった。あるいは既に知っていたのかもしれない。

しかし、それから30年以上経った今、記憶力は完全に普通の人と同じかそれ以下になってしまっている。合わせて、「知識」そのもの、また「記憶する」ということにあまり価値を置いていなかったので、知識を集める努力や、記憶する努力もしてこなかった。結果として、記憶しようとするプロセスが学習プロセスのみならず自分の行動の範疇に存在しない。そのため記憶するための脳の筋肉は鍛えられず、さらに記憶力が落ちていくという悪循環が生じている。

まず、自分は誤解していたが、「記憶すること」は言うまでもなく非常に重要なのだ。「記憶をするということにあまり価値を置いていなかった」と上で書いたが、人間は自らの知識の海の中から新しいものを作り出す(持論)はずだ。記憶を外部化できるといって何も覚えなければ、その知識が独立して必要な場合には確かに外部化した記憶(ネットとか、メモとか)に頼ることができるが、知識のメインの使い方であるべき「組み合わせ」による使用方法においては、外部化してしまった知識は役に立たない。

また、「リアルタイムの現実世界(例えば、会話している時など)」においては、調べる時間などないのだから、身についた知識しか役に立たない。知識を身につけていない人は即ちただの役立たずなのだ。

そして、自分が今成長できず壁にぶつかっているのも、またこの「知識」と「記憶」の軽視が大きな原因に違いない。

何か新しいことに触れる際には、まずは知識を全力で収集する。文字を読み、系統立てて、記憶する。記憶するのは、具体的には例えば「音読」する。メモを残すというのはこと記憶することに関しては無意味とは言わないが、コスパが悪い。それなら目と口と耳で触れる「音読」がベターだ*1。そして、記憶すべき情報についてはがんばって整理しつつ記憶し、自分の頭の中から取り出しやすいようにしておく。これは人とコミュニケーションする上で物凄い武器になるはずだ。

自分の中でもまだ「基礎知識」に関してはまだしも上記作業はできていたかもしれないが、それより先に進む上で、さらに知識を貪欲に仕入れて整理して記憶していくプロセスは試していきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

*1:もちろん、大量の情報をまとめながら摂取するという際には、メモをとりながら摂取するのは妥当な方法だと思う