煙草について

喫煙者を救え!」というサイトがあった。そのサイトの主張にはほぼ全面的に賛成で、僕はそのサイトのおかげで喫煙者になることをギリギリの線で食い止めているところもあると思う。そして喫煙者、非喫煙者嫌煙者、誰に対してもオススメしたいサイトでもある。
ただ、いくつか同意しかねる点はあるので忘れないうちに触れておく。一つは、「煙草の味が好きで喫煙者になるのではない」という主張。

趣向を変えて、こんなたとえ話を作ってみた。

ある駅に列車が止まっていた。試しにみんなで車両の中に入ってみた。行き先はどこにも書いていない。何か面白いものがあるわけでもない。

一部の人は、すぐその場で降りた。残りの人は、どこに行くのか興味を持ち、そのまま降りなかった。気がつくと列車は動き始めていた。ゆっくりだが少しずつ加速している。いったいどこまで行くのだろう。列車はゆっくりと走り続け、いつまでたっても止まらない。扉は開いているから、いつでも飛び降りられる。でももう少しだけ、乗り続けてみよう。

そうしているうちに、列車の速度は加速し、今となっては、もうかなり速い。この速度で飛び降りたら怪我をしそうだ。もう飛び降りられない。こんなことなら、もっと速度が遅いときに飛び降りておくんだった...

この状態のとき、列車に「自由意志で乗っている」とは言わない。最初は自由意志が関与したかも知れないが、今はただ降りられないだけである。このたとえ話は、喫煙習慣を完全には説明していないが、あてはまる所もある。

ほとんどの成人は(ノンスモーカーでも)、いままで一口ぐらいはタバコを吸い込んだことはあると思う。最初の一口は誰にとっても「けむい」。そのけむさを受けて、続いてどういう行動をとるかが、喫煙者となるか非喫煙者のままで済むかの分かれ目となる。

ある人は、こんなけむたいもの、もう二度といらない、と思う。そういう人は非喫煙者となる。 しかし、別のある人は、 こんなにけむたいけど、いかにもおいしそうに吸っている人がいる、何か秘密があるに違いない という好奇心を持ってしまう。そして、「けむく感じないような吸い方」を研究し始めてしまう。この瞬間、喫煙者となることが確定する。タバコが仮に本当においしければ、そんな研究をすることも無いだろうに。タバコはその「けむさ」や「まずさ」が好奇心を呼び、好奇心からある一定量の摂取をし、一定量の摂取が依存症を生むのである。これは史上最強の罠である。タバコは、けむく、まずいからこそ、依存症になるのである。

喫煙者を救え!(9)嫌煙運動についてより
(太字による強調は私によるものです。)

引用の前半の例えは秀逸だと思う。このサイトの前の方には、非喫煙者に対して煙草を吸うことの擬似的な感覚をたとえを使って説明している部分があるが、こちらも実に巧みで説得力がある。
ただ、「たばこはまずくてけむい」という一本通った主張に対しては、自分としては反対したいところだ。煙草は決して、「ただまずいだけ」「けむいだけ」という代物ではない。一種の「うまさ」は、間違いなく存在するはずだ。それは、例えば火で焙られて煙をあげる、肉や魚と、それを口に入れた時の、煙の香りと焦げた部分の香ばしさを思い出せば、比較的近いものがあると思う。煙の香ばしさというのは、間違いなくあるのだ。そうでなければ、煙で燻して保存する「燻製」なるものが生まれるはずはないと思う。スモークサーモンは、子供でも好きな食材の一つだと思うが、これも煙の味の魅力が、決して中毒性によってのみ喚起されるものではないことを示していると思う。
炭火焼の焼き鳥や網で焼いた魚、その出来立ての美味しさに通じるものが、煙草にはあるのだ。

前にも書いたが、僕はたばこのにおいが大好きだ。でも喫煙者ではない。たまに、喫煙所に入って食事をすることもある。煙草の匂いの魅力は、単純なものではなく、過去の思い出の補正が加わっていることは否定できない。それだけに煙草は怖い。同時に、煙草が今後失われていくことを、残念な思いで眺めるばかりだ。