土浦連続殺傷事件

今年の初めに起きた事件で、かなり世間に衝撃を与えた事件だと思うのですが、勾留中の容疑者へのインタビュー記事があります。
容疑者の心の奥に迫るような回答は得られていないように思えますが、彼の異常性を感じ取ることはできます。

 記者「加藤容疑者は、会社などがうまくいかずに犯行に及んでいますが?」

 金川被告「おかしいと思う。彼は自分がうまくいかないことをすべて他人のせいにしていた。彼は八つ当たりで人を殺している」

 記者「加藤容疑者とあなたの違いが、僕には分からないのですが?」

 金川被告「僕はただ、この世の中から解放されたかっただけ」

 記者「ファンタジーの世界に行きたいと、インタビューに答えていますが?」

 金川被告「死んで、ファンタジーの世界に行きたい。向こうでは攻撃の魔法を使いたい」

 記者「攻撃の魔法で他人を傷つけるのですか」

 金川被告「違います。人間を支配しようとする悪者を倒すんです。人々を守りたい

 記者「皮肉に感じる。今生きている世界では、その人々を傷つけたわけでしょう」

 金川被告「この世界から消えたかったんです」

興味深いのが太字にした部分。私にとっては、この発言から彼が持つ生の実感の乏しさを感じ取れるように思う。彼にとって、自分以外の人々がいかに抽象的な存在なのかをまざまざと伝えている発言だと思う。
なぜこのような考え方をするような人間になってしまったのか。社会はこのような考え方を排除すべきなのか?排除すべきとしてそれは可能なのか?いろいろ考えさせられる。

万人が希望を持てる社会を

この容疑者は犯行当時24歳の無職だったようだが、アルバイトはその前までは続けていたらしい。ニートというよりフリーターに近かったわけか。上にひいた容疑者の発言から、私は無職というキーワードと「生の実感の乏しさ」を勝手に結びつけて考えてしまい、そこから「ニートである→生の実感が乏しい」という飛躍した結論を導きかけていたが、考えてみればニートであるかどうかと、生の実感の乏しさは相関関係があったとしても、別に論理的な必然ではありえない。定職についていようが、人生の不満を募らせて犯行に及ぶケースはニート・無職と同様ありうるだろう。
ではどうするか。おそらくは「生の実感」を得られるようなそんな社会を目指すべきなのだと思う。そして、全く副作用的に、これがうまく解決されるとニート問題も解決してしまうのではないかと思う。全く地に足のついてない抽象的な主張で申し訳ないのだけど、今の世の中は生の実感が湧きにくい人が増えているのではないかなと。それが自殺の多さやらニートやら無差別殺傷事件やらの問題の原因にもなっている。問題の根っこはここにあるんじゃないか。

生の実感とは?

未定義のままこの言葉を多用してしまった。僕が何らかの概念を指そうとしてこの言葉を使ったのだけど、世間一般の「生の実感」とは少々ズレていると思う。
改めてここでの「生の実感」を定義し直すと、「自分のとったアクションに対する、全身へのレスポンス」となるだろうか。そのように読んで欲しい。