『はなさかじい』を読んだ

名作過ぎてちょっとびっくりしている。読んでいて涙が出そうになってきた。この物語で最も面白いのは、何を措いても主人公のおじいさんといわゆる「意地悪じいさん」の対比である。「勝ち組」と「負け組」の違いを独自の観点から素朴に(そしてそれ故に残酷に)描き出した作品である。さすが古典である。時代を経て生き残る強度というか、過去も現代も未来にも常に通じる普遍性を備えている。

子供の頃、なんで意地悪するんだろうと思っていた。自分は「意地悪じいさん」にはならないようにしよう、と思っていた。そうでないと痛い目に遭うから。

しかし、もちろん世の中の人が意地悪爺さんになりたくてなるわけではなく、人生というクソゲーを生き残るために必死でもがき、誤った選択を繰り返し続け、いかんともし難いうちに、気づいたらそうなっているのだ、ということに気づくことになる。

つまり意地悪爺さんにならずに年齢を重ねていくことは、そう容易いことではない。そして、主人公のように「まめな爺」として爺さんになることの難易度は言わずもがなである。さて、そんな二人が全く同じ苦境に立たされた時、二人はどんな行動をとるだろうか?

まずは魚をとる仕掛け(籠)である。これがほぼ話の出だしなのだが、ここからもうおっさんには染みて(刺さって)しまって仕方ない。そう、同じようにやってるはずなのに、デキる奴とそうでない奴のアウトプットは残酷なまでに違うのである。釣りに限定してもいいだろう。仕掛けは、置く場所であったり、例えば餌を撒いておくとか、あるいは籠に餌を入れておくだとか、あるいは魚の多い場所を予め知っているとか、そういった細かな違いが積み重なって、素人が見れば同じようであっても、玄人の仕掛けには魚が集まってきて、そうでない奴の仕掛けには魚が来ないのである。これは必然である。意地悪じいさん(作中では「ぶつくさじい」)は、木の根っこしか入ってなかった仕掛けを見て腹を立て、そして「まめなじい」の仕掛けにたくさん掛かっていた魚を奪うと、代わりにその木の根っこを入れるというとんでもない行為に出る。

ここで注目すべきが「まめなじい」のリアクションである。

いいさ、いいさ、きのねっこだって、かわかして われば まきに なるだ

情けなさ、恥ずかしさ、怒りの感情に任せて犯罪的な行為に及んだ「ぶつくさじい」とあまりにも極端過ぎる違い。これが人生の勝者の一手なのだ。そして実際に薪にしようと、木の根をナタで割るとその中からなんと白い小さな子犬が生まれたではないか。一見不幸な出来事であっても、感情に流されず、ポジティブに捉えて行動する。そのような行動は、時にこのような奇跡を齎す。

基本的にはこの物語はこのパターンの繰り返しからなる。①「まめなじい」が成功する②「ぶつくさじい」がそれを妬み、奪う。③真似ても結果が出ず、失敗する。④「まめなじい」は奪われた不幸な状況を誠実にとらえて行動する⑤奇跡が起こり、成功する。

まとめてみると下の図のようになる。

◯魚→✗木の根っこ→
◯犬、大判小判→✗犬の死→
◯臼、大判小判→✗灰→
◯花、殿様のご褒美

「はなさかじい」の終盤、臼の灰が花を咲かせるシーンは圧巻である。いわば生々流転、魚は犬をもたらし、犬は臼に変わり、そして臼は花に変わる。次々と「ぶつくさじい」に奪われ続けながら、憎しみを抱くこともなく、ただ現時点においてあるものに誠実に向き合い続けた結果、犬は死に、形見の臼は灰と成り果てようとも、最後には「まめなじい」は、満開の花を咲かせたのである。単に象徴的であるだけでなく、その情景を思い描いた古人の想像力が素晴らしい。

人生は常にーー隣に「ぶつくさじい」が住んでいなかったとしてもーー突然の天災や事故、病気によって、大切なものを失い続ける過程である。その厳しい人生において、さて、あなたは、そして私は、人を妬み、怒り、感情のままに破壊と殺生を行うような「ぶつくさじい」にならずに済むだろうか?そして「はなさかじい」として花を咲かせることができるだろうか?