囲碁について

高校〜大学学部時代に熱中していた囲碁も、院に入ってから急激に距離が生じてしまい(代わりに現れたのが音ゲーだった)、熱中していた時期に巻き込んで高まった父親の囲碁熱が、僕の中の囲碁熱を適度に保温してくれているといった状況だ。
こんなことを前にも書いたかもしれない。
未だ物心がつかない高校生の頃に熱中していたため、当時生じた誤解が結構根強く残ってしまっていたりする。それはこの長い保温期間の間に忘れてしまって、誤った認識や理解は新鮮な視線で再び思考の俎上に上がることで解消されてきた部分は少なくないと思う(いわゆる「放置効果」か)。しかしそれでも、強固に残っていたものがあった。それが「打つ際には狙いを持ってはならない」という囲碁観だった。考え方の根本的なところに影響する部分だったので、それはさすがに残り続けていたらしい。
高校の頃よりはだいぶ自覚ができてきたはずの今、その問題について再考し、誤解を解いてやる必要があった。いわば亡霊を供養するようなものである。自覚的に退行催眠を行うようなものかもしれない。
(続く)