好きの理由

僕は東方ProjectのBGMが大好きでたまらない。それに接している時の気持ちは、何物にも代えがたい。幸福感と表現してもよいかもしれないが、それは一体何に由来するのか。単純に音楽が美しい/心地よいからだろうか。
別に東方に限らず、何に関しても言えることなのだが。例えば自分が社会から永遠に断絶した場所に置かれることになったとして、そこに幸せというのは存在しうるのか。旋律は社会から切り離されていても独立して存在できるが、はたしてその状況で僕は同等の“幸福感”を味わえるのか(食糧や身の安全についての心配は皆無であるとして)。

自分が決して自分を社会にフィードバックすることができないということを認めてしまえば、今社会の中における生活の中での大半の「幸福の源泉」は一瞬にして色褪せることだろう。永遠に動き続けるCDプレイヤーと、大量の新作CDが与えられたとしても、そんなものは全く無意味になるのだ。「遭難して無人島に一人辿りついた時」といった極端にレアなケースを持ち出すまでもなく、意外と身近に口を開けている穴に落ちれば人間は容易に似た状況に陥るだろう。

それを思うと我々が社会の中で幸福観を得るためには、常に社会にコミットしてフィードバックを得られなければならない。遊ぶためには働かなければならないというのは、決して否応なしに押し付けられる社会のルールなどではなく、純粋に自分を成り立たせている原理に基づく“定理”であり、働かなければ遊ぶ(=遊んで楽しみを得る)こともできないのだろう。

話がそれたが、それを思えば、僕が曲が好きな理由も、そこに何かしらの自分が社会へのインタフェースを持ちうるという希望の光を見るからに他ならない。それがどのような表現方法かはまさに十人十色だが、「好き」の根本的な理由を押さえてさえいれば、何をするにしても自分を空しくすることはないだろう。

ちなみに、上で「認めてしまえば」と書いたが、認めさえしなければ幸福は色褪せることはないのである。
(認めるか認めないかというのは、自分の意志のようにも思えるが、実際のところなんなのか。)
つまり、「信じる」ことができれば、人間はすべての幸福をそのまま維持することができるだろう。
具体的には、無人島で東方アレンジを生き生きと聴いて楽しむことができる、などなど。