いつも思うことで、もしかしたら既にこのはてダにも書いているかもしれないが、絵を描く際にトップダウン的な認識が邪魔をしていることを感じる。
対象を見たとき、対象をそのまま捉えることはなかなかできない。人間であれば人間であると、猫であれば猫であるとして見ている。つまり、人間は概念的にモデル化された対象を見ているのであって、レアな「対象そのもの」を見ているのではない。
その概念化はビジュアル的には不完全なものであって、それを二次元のキャンバスにそのまま投射するとビジュアル的には似ても似つかない代物になる。
どこかの哲学者が「対象そのもの」について考察していたりしないだろうか?寡聞にして(全くだ)しらないが、あるがままの対象を見るというのはどういう意味のあることなんだろうか?そうできることが仏教でいう悟りを開くということなんだろうか?
#そうだとしたら、言葉で説明できないというのは納得できる気もするな
わかりにくい話をしているようだが、直感的には、人間が「錯覚」してしまうんだ、という主張に近いと思う。「錯覚」という現象は、人間のハード的な部分によるもの(人間である限りは克服しようがないもの)と上で触れたトップダウン的な認識によるもの(ソフト的な部分であるから、うまくすれば克服可能なもの)と2種類あると思うが、ここでは主に後者について触れている*1
絵を描くためにはこの自分の中に出来上がっている既存のモデル化をなんとかして打開してやって、少なくともビジュアル的には対象をそのままに見るor絵を描く対象としての再モデル化をしてやる必要がある。枠組の転換ということだ。
僕は小さい頃に絵を描くことなんて簡単だと思っていた。絵を描くことは、「対象を構成する点をそのまま2次元に投射すること」であった*2。これは当然それにかかるコストを思えばあまり現実的ではないが、有効ではないとも言えない。一種のモデル化と言えるだろう。そして、このモデル化を通して自分はいわゆる写生は得意としていた。目で見た対象を、二次元平面上の色のついた点の集合とみなせば、確かに見たものをそのまま絵にするのはやりやすいはずだ。
ただし、いずれにせよ現実の対象をまず認識上で二次元平面に落とす時点でかなりのトップダウン的認識を意識的に排除する必要がある。
この自分の持つモデルを明確にしてみたいと思えば、「記憶スケッチ」をしてみるのはいいかもしれない。つまり対象を見ずに描いてみるということ。
絵の上達とは結局このモデルの洗練と同義なのかもしれない。