言葉が思考の杖となる

言葉を使って考えると、その言葉が思考の頼りになる気がする。

前提として、「言葉を使わずに考える」というのはどういうことか。囲碁の「読み」についてはそれができる。つまり「想像力で考える」という状況*1だ。

想像力だけで詰碁を考えていると、その考えた結果は頭の中で整理されておらず、ダメな図がただ積み重なるだけだ。結局ただの虱潰しになってしまう。想像力によって生まれた想定図(いわばデータ)を、左脳を使って整理し、あわよくばそのデータの山からデータマイニングする必要がある。言い換えると、右脳を使った(想像力を働かせる)読みを、左脳でサポートしてやる必要があるのだ。

想像力は非常に重要だが、それだけでは片手落ちになる。「技術なき理念は白昼夢で、理念なき技術は悪夢だ」という言葉があったが、同様に、「論理的思考によるサポートのない想像力が白昼夢にすぎない」のは実際そのとおりではないかと思う。

これは詰碁以外の日常生活での頭の使い方においても全く同様のことが言える。想像力が豊かであっても、それが左脳によって整理され、検証され、調整されなければせっかくの想像力は無意味であろう。特に卑近な事例でいえば、「記憶する」という極基本的な行為についても、左脳による整理がなされていないと、事例間の関係性が漠然としたものになってしまうので、定着せずに失われてしまう。

自分の能力がどうも冴えないのはこの辺りの考え方に欠陥があるからのような気もする。しっかり左脳を使って想像力を補完する頭の使い方をしていかなければならない。

蛇足

将棋棋士の羽生の読みは、最初は右脳を働かせており、それを検証する際に左脳が働きはじめる、という話を聞いたことがある。まずはイメージで盤面の先、膨大な探索空間を見通す。それを精密なロジックで補完してやるということだ*2

 

 

*1:手垢のついた表現を使うと、「右脳で考える」にほぼ同義

*2:一方で藤井聡太は脳内に将棋盤を持たないという話を聞いた。他の棋士とは違う、特殊な頭の使い方をしているのかもしれない